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4つの橋をどう架けるか?

 この4つの橋の意味とそれをどうやって架けるのかということについて、もう少し立ち入って考えていきたいと思います。地域社会に橋が架かれば、一方通行型ではない交差点型の社会がやってきて、本当にその人が直面している問題を解決できる条件が整ってきます。また、ワークライフバランスとよくいわれますが、図3でいえば、真ん中がほぼ仕事に相当して回りが生活に相当するという読み方もできますが、人生をバランスよく送っていくことができるし、「再チャレンジ」社会なる言葉をあえて使うならば、橋が架かってはじめて「再チャレンジ」社会になっていくということだと思います。
 しからば、4つの橋をどのように架けていくのか。連携するNPOや非営利セクターとは具体的に何なのかということもふくめて考えていきたいと思います。表2に4つの橋それぞれの構成を示していますが、まず自治体が提供する「公共サービス」があって、それから公共サービスと連携する「所得保障」があります。教育サービスがいくら整っていても、仕事を休んで生涯教育をうける間の所得保障がきちんとできていなければ、あるいは育児に専念する間の所得保障がちゃんとできていなければ困るわけでして、そうした「所得保障」が必要となります。それから個別のさまざまなニーズに対応していくNPOの役割があって、これらがすべて総合してこの橋ができているわけです。

橋の構成

 市政調査会には自治体セーフティネット研究会という研究会ができているそうですが、いまちょうど自治体のセーフティネット、なかんずく自治体が生活保護にどうかかわっていくのかということが話題になっています。全国知事会と全国市長会も「新しいセーフティネット検討会」という研究会を発足させ、その報告書が2006年10月にだされました。そこでは稼動世代の制度適用の期間を最長5年間に縮めてしまうとか、聞きようによってはずいぶんなことが書かれているのですが、それ以前の問題として、自治体が生活保護の仕組みを考えなければいけないという流れはどうしてできてしまったのか、それははたしていいことなのか、なぜこのような流れになっているのだろうか。これは三位一体改革のなかで、とにかく自治体は自分たちのことは自分たちでやりなさい、自治とか分権を一言でいえばそういうことになるのかもしれないけれども、それは何から何まで抱え込むこととはずいぶん違うと私は思っているのですが、厚生労働省はそうは考えないで、自治・分権の流れを逆手にとって、たとえば生活保護について、いままでは4分の3くらいを補助金として支出していたのをやめ、一般財源にしてお金を渡すからあとは自分でやってくれ、という流れになっているわけです。その背景としては、たとえば北海道は生活保護率がずいぶん高いじゃないか、北九州市では水際作戦であんなに追い返しているのに北海道はなぜみんな生活保護をうけさせてしまうのか、モラルハザードではないか、というような議論があるわけですよね。だから定額を渡してしまって、あとは自分たちでやれということならば、自ずと追い返すところは追い返すだろうという話になっていくわけです。
 これが実現すると、いわゆる福祉マグネット、生活のためにそこに人がどんどん集まってくるということになってしまいますから、どこも北九州市化せざるを得ない。水際作戦で追い返さざるを得ないということになるわけですね。そういう流れのなかで、全国知事会や全国市長会、そして自治体が生活保護の制度改革について一生懸命考えていくことははたしていいことかとも思います。もちろん思考停止になれということでは決してありません。しかし自治体が一手に生活保護を引き受けてしまうというのも考えものです。人びとの個別の事情に応じてきちっとリスクを解決できるような方向にもっていくことができれば、自治体が生活保護について責任をもつ意味もあるかもしれない。しかし、ご存知のように日本の生活保護というのは、だいたい高齢者が5割、病気で働けない人が4割、本当に何とかすれば働けると想定できる人は1割くらいですよね。ほとんどがもう働くことができないから生活保護をうけているような状況のなかで、自治体がその働けない状況を抱えている人たちのお尻を叩いて働かせるはめになってはいけないのではないかということです。
 年金制度や医療制度がもうちょっとちゃんとしていれば生活保護にならないですむはずなのですが、そうはなっていないから生活保護のお世話になる。それに対して、普通の人びと、自立している人びとが自分の賃金や年金額と生活保護費とを比べて、生活保護のほうがいいではないか、もっと保護費を押し下げろということになってしまうと、これはもうどんどん悪循環が進むわけですよね。5年間の期限を区切れなどという議論も、アメリカの生活保護改革で実際にこういうことをやったのですが、アメリカはたしかに働けるのに働いていない人の割合が日本に比べるとずっと多かったから、その議論に多少の意味があったのですが、日本のような状況でこれを猿まねして持ち込むとたいへん悲惨なことになります。だから、自治体がこれからのセーフティネットを考える場合は、自分たちでやりますよという流れではない。さまざまなNPOの活用などの豊かな事例をベースに、これをもっとうまくやっていくためには、国の生活保護・公的扶助はこうあるべしという設計図を描いて突きつけるということにするべきだろうと思います。その設計図として、たとえば「負の所得税」などいくつかのアイディアもあるのですが、もし時間が許せばあとでお話をしたいと思います。

新しい公共サービスへ

 つぎに、「所得保障」に加えて「公共サービス」も、I からIVの橋の大事な構成要素でして、これをどうしていくのかということです。さきほどNPOを活用するという話をしました。じつは、NPOというと正義の味方ととらえられることが多いので、みんながNPO、NPOというのですが、いろいろなNPOがでてきているわけですね。あるいは、株式会社はみんな儲け本位でNPOは正義の味方ともいえなくなっている。コムスンが事実上破綻しました。あれは株式会社です。株式会社だから儲けに走ってダメになったというのは単純な解釈ですが、じつは、コムスンは10年以上前に北九州市で旗揚げされました。そのときの社長は榎本憲一さんという長野県の医療法人で活躍されていた人なのですが、立ち上げたときに学生を連れてインタビューに行ったことがあります。なぜ注目したかといえば、コムスンは、それまでホームヘルパーサービスは滞在型、つまり昼間の数時間身の回りの世話をして引き上げてしまうタイプの訪問介護が主流であったときに、巡回型、つまり1回15分程度の訪問介護サービス、夜のおむつ交換などをふくむ24時間の巡回型の介護サービスを日本で定着させる、というミッションを掲げていました。そして、このミッションを実現するには制約の多い社会福祉法人ではなく、株式会社にしてしまうのが一番手っ取り早いと考えたわけです。
 2人1組のヘルパーたちが一式の道具をもって軽自動車に乗り込んで、道々を走り回って風のように去っていく。こういうスタイルのサービスをはじめたわけですね。北九州市の何かちょっと汚い本社ビルに学生を連れて行ったときの雰囲気は、いわゆる会社ではなくて、おそらく皆さんがNPOといったときに想像するような、ある種の高いミッションに盛り上がっている雰囲気でした。若い学生たちはそういう雰囲気に非常に敏感ですので、みんな感動していました。それから10年、「六本木ヴェルファーレ」の経営者だった折口さんが買い取った事情はありますけれども、株式会社という法人格は何も変わっていません。コムスンはコムスンです。しかし私たちが訪問したコムスンとはまったく別の何者かに変貌して、そしてじつに悲惨なかたちで舞台を去ったわけです。
 株式会社という点では同じなのに何が起きたのだろうか。あるいはNPOだからすべてが素晴らしいというわけではない。日本の公益法人制度改革のジレンマは、よいことをしている団体だから税金を軽減しましょうとすると、そこにわけのわからない団体がどっと入り込んでくるわけですよね。さらにもっといいことをしている団体を選り分けて特別公益法人などをつくっても、またそこにも入ってくる。要するに、株式会社でも立派なことをやっているところはあるし、NPOでもいいところばかりではない。

社会的企業の可能性とリスク

 図4はそのあたりの事情を示したものです。かつて協同組合というのは組合員の共益を守るために事業を展開しました。NPOというのは公益性を志向するのだけれども事業性は低くて、アメリカが典型ですけれども寄付を集めてやってきました。しかしいまは事業型NPOなどといって、NPOもどんどんビジネスを志向するようになっているし、それは利益が目的ではないにしても、NPOとしての一定の規模を担保して事務所を運営していくためには事業性がなければならない。協同組合も公益性を志向して介護サービスなどをするようになった。あるいは創設当時のコムスンのように、かたちは株式会社であるけれども公益をしっかり追求しようというところもでてきていて、図の破線で囲まれたような空間が生まれているわけですね。これは協同組合でもありNPOでもあり株式会社でもある。これをとりあえず「社会的企業」と呼んでいるのですが、逆にいえばNPOでも協同組合でも株式会社でも、ここから外れてどんどん私益追求に走ってしまうところもでてきている。私たちには、結局のところNPOだからいい、株式会社だからダメというよりは、地域社会のなかで柔軟に人びとのニーズに対応し公益を実現してくれる開かれた組織をいかに育てていくのかということが問われているのだと思います。
 そのためには、指定管理者制度でも市場化テストでもどんどん入ってきていますが、たとえば市場化テストがコスト第一の競争を強いるとまともなNPOは参入できないわけです。NPOを名乗っているコスト第一の奇妙な集団が入札で受注し、そのサービスを引き受けていくことになるかもしれないし、それをNPOと呼ぶのは自由だけれども、NPOではない何者かになっている可能性がある。法人格は何であれ、行政と本当のパートナーになって対等・平等に、橋のモデルで示したように、行政ではできない細かい一人ひとりのニーズに対応する事業をやってくれるところを探し当てるためには、コスト本位の入札制度や市場化テストあるいは指定管理者制度ではダメなわけですね。そこでは、まったく別のものさしが必要なのです。そのものさしをどうやってつくっていくのかというのはなかなか難しい問題であり、開かれた自由で民主的な組織、高いミッション性を備えた組織をどうやって選び出していくのかというものさしを考えていくのはなかなかたいへんなことですが、そういう観点でのパートナーシップというのは行政にとってもたいへんありがたいことであるはずです。

まとめ――「公」「民」関係の再構築

 そろそろまとめに入っていこうと思います。さきほど橋を架ける事業のなかでパートナーシップの話をしました。いま自治体に市場化テストなどのかたちで課されてきている官から民への流れと、橋を架けるモデルの一環として提案した非営利セクター・NPOの役割というのはどう違うのか。「官」が「公」をすべて牛耳っていて、民間というのは自分のことしか考えていない、だから「官」のほうが偉い、「公」のほうが立派。こういう古いかたちはたしかに終わりつつあるし終わらせなければいけないと思います。ただし、「官」から「民」へといったときに、「民」が私益第一という意味での「私」であり続けるならば、たとえばオリックスのような会社の経営者が「官」から「民」へと号令をかけて、自分たちだけが肥え太っていくにしか過ぎません。
 しかし本当に必要なことは、「官」から「民」への流れが「私」から「公」への流れと同時平行して進むときに、「官」とのパートナーシップ、行政とパートナーシップをとりつつ公共性を担ってくれる新しい「民」が登場してくるわけですね。ところが、この流れというのは自然に放っておいて進むわけではないと思うのです。いま本当に頑張ってやってくれているNPOというのは、その当事者たちが乏しい時間をやりくりしながら何とか頑張ってようやくもっている。いわば普通の市民にとって、そうした「公」に接近するということは、たやすいことではないわけですね。普通の市民が自然体で「公」に接近していくというのは、ともかく時間的な制約があるわけです。
 ではどういう条件が「私」が「公」に接近していくことを可能にするかといえば、たとえばさきほどの地域社会に4つの橋を架けるようなそうした新しい福祉モデルがでてきていて、そして人びとが時と場合に応じて仕事から離れて公共とかかわれるような条件がある場合ですよね。そういう橋ができるためには、NPOに頑張ってもらわなければいけないということになると、よく考えてみると堂々めぐりです。卵が先か鶏が先かということになってしまう。でもそうもいってもいられないわけですね。いま橋を架ける事業をできる範囲ではじめながら、より多くの市民がそうした活動に携わることができるような条件をつくっていく。そしてそこから新しいパートナーが生まれてくる。そういう循環を介していかなければならないのだろうと思います。
 ずいぶんと飛ばしてしまって、わかりにくい話も多々あったかと思いますが、とりあえずここで話を締めさせていただきます。
 ありがとうございました。

 

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